あれから結局、心の整理が追いつかないまま日曜を呆然と過ごし、月曜になってしまった。
鯉登くんと出会ってから、私の感情はずっとジェットコースター状態だ。
いつもどおり部活動の始まる時間に剣道場の入口で剣道着姿の彼と出会ったけれど、彼の顔はうまく見られなくて、会話もできなかった。
いい大人なんだから、しっかりしなさいよ私。
それこそ生徒に示しがつかないじゃない。
それに、鯉登くんに対しても失礼だ。部活動のことや家までの送迎など彼へ感謝しなければいけないことはたくさんある。
私は何度も自分にそう言い聞かせる。
もうそろそろ部活の終わる時間だし、彼が連絡しに来るはずだ。
いつもどおりにしなければ。
ガラッ——
予想したとおり、職員室のドアが開けられる音がしたと思うと、鯉登くんが「ナマエ、部活の方は終わったぞ」と私の方へ歩いてくる。
先週までと同様、当然のように荷物を前山先生の机に置く彼は、いつもと違う私の態度に気づいたのか、高いその背を屈めてこちらを覗き込む。
彼の顔を間近で見た瞬間、土曜にショッピングモールで見かけた女の子と2人仲良く歩いていた姿がチラついて、近づいてくる彼の顔から避けるように反射的に身をのけ反らせた。
「? どうした、ナマエ?」
しっかりしなさい。
大人らしくちゃんとなんでもない風を装いなさい。
あれだけ自分に強く言い聞かせたのに、無邪気に近寄ってくる彼が引き金になって、私の口は言うことを聞かないまま勝手に動き出す。
「彼女がいるのに毎日送るとか勘違いさせるようなことしないで……」
「彼、女?」
彼の態度は今までと何一つ変わりないのに、自分の感情をうまくコントロールできない。
案の定、鯉登くんは何が何だかよくわかっていない様子で、疑問符を頭に浮かべている。
他の先生方が異変に気づいてこちらに視線が集まっていることに気づき、私ははっとした。
このままこの場にいるのはまずい。そう思った私は彼の腕を掴むと職員室を出て、廊下の端にある国語科の準備室に入った。
前山先生ももう一人いる国語教師ももう既に帰っていたから、おそらく人は来ないだろう。
鯉登くんも準備室に入ったのを確認した私は、ドアを後ろ手で閉めると廊下から見えないよう部屋の奥へと移動した。
わけがわからないといった様子の鯉登くんが先に口を開く。
「なんなんだ、さっきの彼女がどうのこうのと言うのは……」
「ごめん。私、土曜〇×ショッピングモールに行ったんだけど、そのときたまたま鯉登くんのこと見かけちゃったんだよね」
はっと目を丸くした彼をよそに、私は震える声で言葉を続ける。
「一緒にいた女の子、あれ彼女だよね」
鯉登くんは唇を噛み、眉間に皺を寄せた。すぐに否定しない彼を見て、やっぱり彼女なんだ……と私は再三受けたはずのショックを再度受ける。
「送ってもらえるのは本当にありがたいことなんだけれど、私みたいな別の女と毎日夜遅く一緒に帰ってるって知ったら、彼女さんはつらいんじゃないかな。だから、もう送るのは、」
私が言い終わるよりも前に、鯉登くんはその大きな身体を折り畳むようにして、突然思い切りよく頭を下げた。
あぁ、これで送り迎えしてくれる鯉登くんとの関係も終わってしまうのだな。
そんな未練がましいことを考えながら、私は頭を下げる彼の方を黙って傍観していた。
鯉登くんはゆっくり顔を上げると、いつもよりも真剣な眼差しで私の方を射貫くように見つめてくる。その真っすぐな瞳にどきりとして一瞬私の肩が跳ねた。
何か言おうと私の方に一歩近づいてはためらうように俯き、また再度意を決したように顔を上げる。そんな鯉登くんから一定の距離を保つべく、私も近づいてくる彼に合わせて一歩後ろに下がった。
そんなことを繰り返しているうちに、私の背中は準備室の窓へとぶつかってしまう。
逃げ場がなくなってしまえば、彼との距離はただただ縮まるばかりだ。
いや、だから彼女がいるのにそんなことしないでよ! そう私が口を開こうとしたとき、数センチ先まで迫る彼の方が、私よりも少しだけ早く話しはじめた。
「……あのとき一緒にいた女性は兄さぁの婚約者だ。急な仕事が入った兄さぁの代わりに彼女の迎えを頼まれ、迎えに行った。それだけだ。私に交際している女性はいない」
彼の言葉を聞いて、少しずつ自分の中に澱のように溜まっていたものが綺麗に浄化されていく。
あまりにも真っすぐに私の目を見て話すものだから、私は疑う余地もなく無言のまま彼の話をじいっと受け入れて聞くことしかできなかった。
「不快な気持ちにさせてしまったなら、すまないことをした」
いつもは上がり調子の眉毛をしゅんと下げている彼は、叱られてしょぼくれる大型犬のようだ。
そう、なんだ…。
私は彼の言葉と仕草にほっと安心するとともに、これ以上隠せない自分の恋心も同時に認識してしまい、今度は顔に熱が集まって勝手に恥ずかしい気持ちになる。
「だから、これから先もナマエのことを家まで送らせてほしい」
ずいっとその整った顔を一段と近づけて私の手を握ってくる彼は意識してやっているのだろうか、それとも無意識でやっているのだろうか。
何にせよ心臓に悪いから、一刻も早く手を離してほしい。
「わ、わかったから…! て、手を、離して!」
彼は手を離す様子はなく、それどころかますます顔を近づけてくる。
だめだ。このままだと、キ、ス、しちゃ、
ガラッ———
「いけないいけない。忘れ物! ってあれ、2人ともこんなところで何してるの?」
突然開かれたドアの向こうには、不思議そうに私たちを見つめる前山先生が立っていた。
私はドアが開く前、恥ずかしさのあまり反射的に鯉登くんを突き飛ばしてしまったが、それが功を奏したようで、前山先生には手を繋いでいるところは見られていない。
私たちはお互い顔を真っ赤に染めて、気まずそうに明後日の方を向く。
ちょうどタイミング良く夕陽が差していることもあって、前山先生も私たちの顔色までは気づかないだろう。
何も知らない前山先生だけが、私たちの顔を交互に見合っては「?」という顔をしていた。
私たちは前山先生を残したまま、慌てて準備室を出る。
もし、あのまま前山先生が来なければ——。
眼前まで迫ってきた彼の顔や息遣いを思い出して、私の体温は一気に上昇する。
鯉登くんの顔をまともに見られていないので、彼がどんな反応をしているかはわからないけれど、わからないままの方がいいかもしれない。
今彼がどんな顔をしていようが、これから着手する私の仕事に悪影響が及ぶことだけは容易に想像できる。
私は残りの仕事を片づけるために、先ほどまでのことを頭の隅に追いやろうと懸命に努力したけれど、離された手はいつまでたっても熱を帯びたままだった。
つづく
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます