第5話 私の前のスペースに溶け込んでいくあなた
「ナマエ、お疲れさま。今日も部活が終わり次第、職員室に迎えにいくから」
「ありがとうございます、と言いたいところなんだけれど、実は……」
深刻めいた表情をする私と剣道場の出入り口で向かい合う形で、剣道着姿の鯉登くんは「?」と首を傾げる。
最近は仕事終わりに彼に家まで送ってもらうことが当たり前になり、こうして2人だけで話すときの口調もだんだんと崩れてきた。生徒たちに見られていないところであれば、少しくらい敬語を外しても大丈夫だろう。
彼は彼で、いつ会ってもぱあっと明るい笑顔をこちらに向けて「送っていく」と言うものだから、私は毎日のことなのにどきっとしてしまう。
だけれど、今日は少し懸念していることがあって……。
「もしかしたら、鯉登くんも既に聞いてるかもしれないけれど、今日の部活、鶴見副校長が見学に来ることになってるんだよね」
「鶴見副校長が⁉ そんなこと、私は聞いてないぞ!」
明らかに動揺する仕草を見せる彼は、眉間に皺を寄せて前のめりな姿勢で私にずいっと顔を近づける。顔が近いよ、鯉登くん……!
こういうのを無意識でやるのだから、彼は本当にたちが悪い。
「私も今日聞いたばかりなんだけれど」と前置きしつつ急遽決まったことらしいと取り急ぎ彼に説明すると、彼も「ならば仕方ないか」と少し肩を落としながら納得した。
「だから、今日の部活動は私も鶴見副校長に同行する形で見学しようと思ってるんだ。ほら、今まで剣道部のこと鯉登くんに任せっきりでちゃんと見られてなかったし……。鯉登くんは私たちのことは気にせず、普段どおりにやってくれれば大丈夫だよ」
鶴見副校長がなぜこんなにも急に見学したいと言い出したのか、真意のほどはわからない。今朝いきなり副校長に呼び出されたときも「何かまずいことでもありましたか?」などと探りを入れてみたが、「いや、まずいことは特に何も」の一点張りだった。
まずいことがないのであれば、なおさら見学しに来る意味がわからない。
懸念というよりはむしろ漠然とした不安を感じるけれど、何か企むように微かに笑っていた鶴見副校長の表情から察するに、生徒をはじめ私や鯉登くんに何か問題があってのことではなさそうだった。
「それなら良いが……」
彼は渋い顔を上げて、剣道場に提げられた時計を一瞥し部活動の開始時刻が迫っていることに気づくと、「じゃあ、行ってくる。何かあれば練習中に声をかけてくださいと鶴見副校長にも伝えておいてくれ」と私の方に微笑み、竹刀やら防具の類いやらを手に持って生徒のいる剣道場へと早足で向かって行った。
私は剣道場へ行く彼の背中を見送ると、踵をかえして今度は剣道場とは真逆の方向にある校舎の方を眺めながら、鶴見副校長の到着を待つ。
……それにしても、部活動中の鯉登くんを見るなんて部活動を立ち上げた初日以来はじめてだ。
鶴見副校長の見学、というのが不安要素ではあるけれど、彼が普段どう生徒と向き合って、どう指導して、どんな話をしているのかは以前から気になっていた。
忙しさにかまけて、今日の今日まで顧問らしく部活動の風景を見に来ることを怠っていた私には、ちょうど良い機会かもしれない。
そうこう考えを巡らせているうちに、視線の遥か彼方から鶴見副校長が来るのが見えた。
オールバックで綺麗に髪を整え、高そうなスーツを背筋をピンっと伸ばして着こなしている副校長の姿は、遠くからでも目立つ。
「待たせたかな?」
「いえ、部活の方はさきほど始まったばかりなので大丈夫です」
「それは良かった。じゃあ、私たちも行こうか」
鶴見副校長を迎えた私は、私よりも在校歴の長い副校長へ「どうぞ、こちらです」などとなぜか案内をして、剣道場の中へと一緒に足を踏み入れる。
部活の方はちょうど部員全員が剣道着を身に付け、コーチである鯉登くんの方を見て素振り練習をしているところだった。
副校長と私がそっと練習場に入った瞬間、部員たちと鯉登くんがチラッとこちらの方を見たけれど、みんな集中しているだけあってすぐに自身の練習の方に意識を戻す。
鯉登くんはコーチらしく、厳しい眼差しで部員たち1人1人を見つめつつ、たまに部員に近づいて「太刀筋が歪んでる」とか「もっと最後まで力いっぱい振りかぶれ」などとアドバイスをして回っている。
時には、自分の竹刀を握りしめ、「次第に竹刀の角度が下がってきてるな。最後までこの角度を保て」とお手本として素振りに参加していた。
……彼のこんな真剣な姿は初めて見た。
部員たちとも無事に信頼関係を築けているようで、素直に彼のアドバイスに従う生徒たちの姿を見てほっと一安心する。
「ナマエくんはよく部活動を見に来てるのかな?」
「いえ、正直鯉登くんに任せっぱなしで……」
「はははっ! そうか。じゃあ、新設してすぐだというのに、こんなに生徒が上達しているのは偏に鯉登くんのおかげだな」
鶴見副校長の言葉に若干の気まずさを感じ、私は「ははは…」と苦笑いで返すことしかできない。
でも、本当に副校長の言葉のとおりだと思う。
0から生徒との信頼関係を築き、指導を素直に受け取ってもらうことの難しさは、若手教師である自分がよく知っている。
おそらく、彼の正直でまっすぐな人柄や剣術の確かな腕が生徒に伝わり、敬意を伴って受け入れられたのだろう。
私は鶴見副校長の隣だというのに、生徒に意外にも丁寧に指導をしている剣道着姿の鯉登くんを無意識に目で追ってはかっこいいな、なんて思ってしまう。
しばらくして、鯉登くんは素振りをする生徒たちの前で手を叩いた。
「素振りは以上。休憩に入ってくれ」
彼の言葉を皮切りに、先ほどまでのシンとした練習場には和やかな話し声がそこかしこから溢れてくる。
良かった、みんな楽しそうだ。
私は楽しそうに話し合う生徒たちの姿を見て、さらに安堵する。
あぁ、大丈夫だ。剣道部は鯉登くんのおかげでうまく軌道に乗せられたようだ。
「どうですか? 剣道部、結構いい雰囲気じゃないですか」と別に自分の手柄でもないのに鼻高々と話したくなった私は、話し相手として隣にいるはずの鶴見副校長の方をチラッと見る。が、残念なことに副校長はいつの間にかその場から離席していた。
あれ、鶴見副校長はどこに?
きょろきょろとあたりを見渡していると、ちょうど剣道場の隅で休んでいる鯉登くんと視線がぶつかったように感じて、彼の元に向かおうと一歩を踏み出そうとする。
しかし、すぐに生徒のうちの1人が、鯉登くんに「コーチ!」と話しかけた。何やら練習のことで相談をしている様子だ。
鯉登くんは親身に生徒の話を聞いていたかと思うと、いきなり破顔して生徒に満面の笑みを浮かべながら、竹刀を軽く振って「これはこうだ」などと指導とも雑談ともとれるような様子で話をしている。
鯉登くん、あんな顔もするんだ……。
素振り稽古をしているときの落ち着いた佇まいをする彼の姿からは一変、生徒と子どものように人懐っこい笑顔で話す彼に、思わず見入ってしまう。
「うんうん。生徒たちとの関係も良好そうだな」
突然背後から低い声が聞こえて、驚いた私の肩が軽く飛び跳ねる。
「っ鶴見副校長!」
「すまない。急な電話が入ってしまってね。私はこれで失礼するよ」
「え? 最後まで見ていかれないんですか?」
「最後まで見なくても生徒も君たちもうまくやれていることがわかったから、ここまででいい。2人とも、部活動が終わったら、私の部屋まで来てくれるかね?」
私の部屋と言うのは副校長室のことだろう。
「わ、わかりました……」
結局なんのための見学だったんだろう……。
そんな疑問を抱きながら不審げに返事する私とは対照的に、鶴見副校長は満足そうな表情をして剣道場をあとにした。
相変わらず定期テストの準備に追われていることもあって、私も副校長の後を追って職員室に戻ろうかと思ったけれど、楽しそうな生徒たちや鯉登くんの姿を見るとなんだかこのまま帰るのが惜しく感じてしまって、結局この場に残ることにする。
でも、こうも頬を緩めっぱなしでは生徒に示しがつかない。
ナマエ、もっとしゃんとしなさい!
そう、自分に強く言い聞かせるけれど、この前の私の勘違いの一件で彼が好きだと自覚してしまって以来、自然と私の目は彼の姿を追ってしまい、彼の姿を捕らえた瞬間、胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになって、口角は上がってしまう。
私は生徒たちと笑いながら話す彼をしばらく呆然と見ていると、いつの間にか生徒と会話を終えていた彼と視線がかちあった。
滲む汗に濡れた前髪が少し額にはりついている彼は、こちらに向かって太陽のように笑う。そんな彼を見ていると、胸がときめいてしょうがない。
それは反則だよ、鯉登くん…!
彼は額の汗を手の甲で拭うと、私から生徒たちの方へ目線をずらす。
背筋を伸ばし直し、元のとおりきりっとした表情をしながら再び手を叩いて「練習再開!」と叫んだ——。
◇
「それで、鶴見副校長殿のお話とはいったいなんなのだろうか?」
「さぁ……?」
部活終了後、私はスーツに着替え終わった鯉登くんと副校長室に向かって並んで歩いていた。
副校長は楽しそうに笑って見えたけど、あの笑みにどういう意味が含まれるかは私もずっとよくわからない。
「今日の見学も意外と早く終わったのだったな」
「そう。急な電話が入ったとかなんとかで」
「気づいたらナマエ1人だけになっていたから驚いた。……その、私はどうだった?」
「鶴見副校長は鯉登くんのことすっごく褒めてたよ。剣道部が今軌道に乗っているのも、鯉登くんのおかげだって」
「そ、そうではなく…! いや、鶴見副校長のお言葉は、大変ありがたくはあるのだが…」
そうじゃないならいったい何だというのだろうか。目の前の彼は何か言いたげだ。
鶴見副校長に心酔しきっている彼のことだから、てっきり副校長が絶賛していたことを聞いたら飛び上がるように喜ぶと思っていたのに。
『私はどうだった?』という鯉登くんの言葉の表面をなぞってみても、彼が気にしていることがいまいちよくわからなくて、私は首を傾げて少し背の高い彼の顔を覗き込む。
そんな私の顔をじれったそうに見つめる彼。
「だから! ……ナマエから見て、私はどうだったかという意味だ」
なんでわからないんだ、そう言いたげにあからさまに不満そうな表情をする彼は、数拍おいて少し自信なさげな口調でそっと呟いた。
あぁ、そういうことかとようやく心得た私は、ぽんっと手を叩いて彼に感謝の意を述べる。
「あぁ、そっちの方ね! 鯉登くん、生徒への指導とかすごくうまくて安心したよ! 本当にありがとうね」
「いや、だからそういうことでは……」
いまだに納得のいかなさそうな顔をしている鯉登くんに、今度は私の方がもどかしい気持ちになってしまった頃、私たちはちょうど副校長室へとたどり着いた。
私は鯉登くんの方を気にしつつ、あまり鶴見副校長を待たせるのも良くないと思って、会話の途中ではあるものの、早速ドアをノックする。
「入ってくれ」
ドアを開けた私たちは、2人揃って部屋の奥の大きな机に座っている副校長の真ん前まで進む。
「部活後のお疲れのところ悪いな」
「いえ。今日は見学いただきありがとうございました。それで、お話とはなんでしょうか?」
「お礼を言うのは私の方だ。見たところ、2人ともうまくやっていそうで安心した」
鶴見副校長は見学にきた時と同じように、何やら含んだ笑いをしながら私たちの顔を交互に見つめてくる。
2人とも、と鶴見副校長は口では言うけれど、圧倒的に鯉登くんの指導のおかげなことは明らかで、副校長のその視線を若干痛く感じてしまう。
「そこでだ、」少し溜めて話すその口調に、いつも以上に緊張する。
「県外の高校に練習試合を含めた合宿に行ってほしい」
「「が、合宿⁉」」
私と、同じく驚いた鯉登くんの声が重なり、副校長室に響いた。
いやいや、合宿なんてそんな急に言われましても……。
「ちょっ「ありがたいお話ですが、新設したばかりのうちの剣道部と練習試合してくれる高校なんてあるのでしょうか」
鯉登くんは前のめりな姿勢で、私の言葉に被せて鶴見副校長に尋ねる。
いいぞ、鯉登くん。彼の疑問点は私のそれとはややズレているけれど、もっと突っ込んで聞いてほしい。
「あぁ。その高校の校長は私の古い友人でな。今年度から剣道部を新設した、と言ったら、それではぜひうちと練習試合を、と先日お誘いを受けたところだったのだ」
なるほど。それで今日、安心して練習試合へと送り出せるか見学しに来たのか。
ここまできて、ようやく私は突然部活を見学したいと言ってきた鶴見副校長の真意に合点がいく。
「でも、副校長。さすがに新設してまだ1か月くらいしか経っていないのに、合宿なんて少々早すぎるのでは? 生徒たちの保護者にもそれなりの説明をしなくては……」
「なにも、今すぐに合宿に行って来いというわけではない。…そうだな、1か月先くらいだったらどうだろう。なぁ、鯉登くん?」
「確かに、3か月後に控える夏の全国大会までに他校との本番形式での練習ができるなら、それに越したことはありません」
あれ? いつの間にか鯉登くんは鶴見副校長側の人間になってる感じ??
保護者への説明とか向こうの高校との事前の擦り合わせとか、私が全部やるんだよね???
予想よりもトントン拍子に進んでいく彼らの合宿計画をどうにか止めたいけれど、専門用語を出されたり「生徒たちの上達のため」と生徒を盾にされては、私に口を挟む余地はなくて、先ほどまで味方だったはずの鯉登くんの顔を、はらはらとした気持ちで見上げることしかできない。
残念ながら当の本人は鶴見副校長の提案に食いついているので、私が助けを求めていることなど気づかないのだけれど。
これだから、鶴見副校長信者は…‼
2人に抵抗することを諦めた私は、保護者に出来る限り速やかに丁寧な説明ができるよう、自分の疑問点を潰すために鶴見副校長へ疑問を投げかける。
「それで、生徒たちはどこに泊まるんでしょうか? 向こうの学校の寮とか? 私たちは近くのビジネスホテルに泊まるイメージですかね?」
「いや、山奥の高校なんだから近くにビジネスホテルなんてないよ。ちなみに寮もない」
「え? じゃあ、」
「その高校の近くにログハウス型の宿泊施設があるから、生徒用2棟と君たち2人用の計3棟のログハウスを借りるつもりだ」
「キェッ…! いや、鶴見副校長。我々は建物を分けてもらわないと……!」
さすがに動揺をした様子で鯉登くんが突っ込む。
全く鯉登くんの言うとおりだ。1つ屋根の下に付き合ってもない男女が泊まるのはいかがなものか。ここは日本。どんなに山奥でも、やりようはいくらでもあるはずだ。
でも、動揺した私たちを気にすることなく、副校長は話を進めていく。
「別に観光地の近くというわけではないから、そこまで大きく充実した宿泊施設ではないのだよ。そもそもログハウス自体が3棟しかない」
まぁ、その代わりログハウスの中は広くて、ちゃんと仕切りもあるから大丈夫。
そう鶴見副校長は悠然と付け加えるけれど、当の鯉登くんにはそんな気休め程度の補足情報は届かないようで、顔を真っ赤に染めて言葉にならない小さなうめき声をぶつぶつと言っている。
私だって同じだ。
だけれど、近くに宿泊施設がないと言われた手前、代案が出せるわけでもなく……。
「それじゃあ、生徒と保護者への連絡をよろしく頼んだ。あとで、向こうの剣道部の顧問の連絡先をミョウジくんに教えるから、そちらの調整も合わせて頼む」
「わ、わかりました……」
定期テストも近いというのにまた仕事は増えるわ、悩ましいログハウス問題まで生まれるしわ……。どうなっているんだこの学校は、と心の中で悪態をつく。
けれど、目に見える形で副校長に悪態をつく勇気は私にはない。残念ながら。
その日のあと、鯉登くんはずっと神経が過敏になってしまったのか、何を聞いても「キェ!」となってしまうし、心ここにあらずの様子だった。
私だって一緒だ。片思いしている鯉登くんと1つ同じ屋根の下だなんて緊張する。
でも、その動揺した鯉登くんの姿は、コーチをしていたときの鋭い表情の鯉登くんからは想像ができないくらい別人のもので、それはそれでおもしろくてかわいいな、なんて思って微笑みながら見てしまうのだった——。
(つづく)
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