第1話 彼との出会いと平凡な日常の終わり
視界良好 変わらぬ日々に気を抜いて ゆるんだ隙にあなたは私の前に佇む
「先生~さようなら~」
「はーい、気を付けて帰ってね」
母校の私立高校で夢だった国語教師の職についてから、3年。
生徒との距離にはいまだに悩むこともあるけれど、仕事にも徐々に慣れてきて、生徒とも他の先生ともある程度打ち解けてきて、順風満帆な日々が続いていた。
4月から新しくクラスを受け持つことになった私は、今日のHRを終えて、教壇の上に広がっている文具の片づけをしながら、教室から出ていく生徒たちを見送る。
教員の日々の業務はわりかしルーティンだ。
担当しているクラスの生徒がなにか問題を起こすとか、その親が怒って学校に乗り込んでくるとかがない限りは、朝から夜まで宿題の採点や次の宿題の作成、授業の準備などを日々繰り返す。
変わっていくのは生徒と窓の外の景色くらい。
配置変えのある公立高校の教師と違って、私立高校は他の学校に移ることもよっぽどのことがない限りはない。
教壇の上をひととおり片づけ終わると、まだ教室に残っている生徒に「早く帰るようにね」と声をかけて、私は教室を出た。昨日も一昨日もしたのと同じように。
ずっとこんな代わり映えのない毎日が続いていくのだと思っていた。
そう、貴方に出会うまでは——。
廊下で何人かの生徒と軽く会話を交わして職員室にたどり着いた私は、自分の席に手いっぱいに持っていた荷物を下ろす。
授業の時間が終わると、あとはひたすらに自分の仕事と向き合う時間だ。
次の仕事に取りかかるため、私は何かあたたかいものでも飲もうかと給湯室にふらふらと行き、棚を物色する。
これこれ。私は棚の奥に入っていた薄茶色のパッケージを手に取る。
春と言ってもまだ肌寒いこの季節、カ〇ディのチャイミルクティーの甘さとあたたかさが身に染みるのだ。
ほくほくとした気持ちで、チャイの素を自前のマグカップに入れて、誰かが給湯ポットにわかしてくれていたお湯を注いでいく。給湯室に甘くてスパイシーな香りが広がった。
はぁ、幸せ。
別に特別な幸せなんていらない。平々凡々な私には有り余る幸せよりも、日々が何事もなく過ぎていく方がありがたい。こういうささやかな日常の幸せをかみしめるのが、私の性に合っている。
私はあたたかいチャイミルクティーの入ったマグカップを持って自分の席に着く。
甘いチャイを一口飲むと、幸せな味がして「さていっちょ頑張りますか」と私は今日の小テストの解答用紙をトートバッグから出す。
さぁ、今日はどこまでできるだろうか。
授業をしている時間も好きだけれど、ひたすら作業に没頭できるこの時間も私は好きだ。
ところが、
「ミョウジさん、副校長が呼んでたよ」
気合を入れて赤ペンを手に持った瞬間、突然声をかけられる。
声の主は隣に座っている同じく国語教師で私よりも10年以上先輩の大ベテラン、前山先生だった。今日も鼻の下に生えたちょび髭がかわいいですね、なんて余計なことを思いながら私は彼の顔を不審そうに見やる。
「え? 副校長が?」
「急ぎだったみたいだから早く行った方がいいと思うよ」
前山先生はこちらを振り向くこともなく、忙しなくパソコンに何かをカタカタと打ち込んでいる。せっかくお気に入りのチャイを淹れたばかりなのに、今日はついてない。
私は赤ペンの蓋を戻し、解答用紙を再びバッグの中にしまう。
まったくありがたくはないのだけれど、社交辞令として一応前山先生には「わかりました。ありがとうございます」と返し、私は席を立った。
副校長からの急ぎの呼び出しなんて今までで初めてだ。嫌な予感しかしない。
何か保護者からクレームが入ったのだろうか。それとも、生徒が非行に走ったとか?
ありとあらゆる可能性を悶々と考えながら、職員室を横切り、奥にある副校長室へとつながるドアの前に立ってトントンと叩く。
「ミョウジです。前山先生から副校長が呼んでる、と言われたのですが」
「あぁ。待っていたよ、入ってくれ」
「失礼します」
そっと副校長室のドアを押し込むと、オールバッグにミドルエイジにしてはたいそう整った顔だちの副校長が、大きな革製の椅子の上にリラックスするように座っていた。
私はドアをそっと静かに締めると、部屋の中央に進み、大きな机を挟んで彼と向き合う。
「…あの、鶴見副校長。私、なにか問題でも…?」
不安そうに聞く私に、鶴見副校長は今までの真剣そうな表情から一転、破顔する。
「ふっ。いったい前山に何を言われたかはわからないが、説教の類いで君を呼び出したわけじゃないぞ。むしろ、君には1つ頼まれごとを聞いてもらいたくてね」
「…はぁ」
はて? なんだろう。
褒められて伸びるタイプの私にもちろん説教は勘弁してくださいという感じだけれど、この人の言う頼まれごとというのも、若干嫌な予感はする。
だって、副校長である彼から、一介の若手教員の私に対する頼みごとなんて、実質命令だ。
「頼まれごとって、」
トントンッ——
なんでしょうか。
口を開いたものの、副校長室のドアがノックされる音に、私の声はかき消された。
「おや、彼もちょうど来たかな」
副校長室にはドアが2つある。
1つは職員室とを繋ぐドア、もう1つは廊下に面したドアだ。
廊下に面したドアがノックされるときはたいてい外部からの業者や学校関係者の訪問が多い。
「一旦失礼しますね」
外部の客人と鉢合わせして邪魔になってしまうといけない。急いで職員室側のドアから副校長室を出ようとした私を、鶴見副校長は留めた。
「いや、君も一緒にいてもらったほうが話が早い」
気のせいか、鶴見副校長の顔はどことなく何かを企み楽しんでいるように見える。
彼は廊下にいる客人に対して声をかける。
「鯉登くんかな? 入りたまえ」
「失礼します」
勢いよく廊下側のドアが開け放たれる。
お辞儀をしながら入ってきたのは、ビジネススーツを着こなしたシュッとしたイケメンだった。
歳の頃合いは私と同じか1、2歳ほど年下に見える。
いったい彼は何者?卒業生だろうか?
なぜ鶴見副校長は私と彼を同席させたの?
そう疑問符を頭の上にいっぱいに広げているのは私だけではなかったようだ。
部屋に入った彼も、まさか同席者がいるとは思っていなかったのだろう。
職員室側のドアの前で突っ立っている私の方を同じく不思議そうに一瞥し軽く会釈すると、鶴見副校長の座る机の前に立つ。
この状況に困惑して最初の一言が見つからない私たちに、机で悠々と腕を組んでいる鶴見副校長がゆっくりと口を開いた。
「君たちには、今度わが校に新設する予定の剣道部の顧問とコーチをお願いしたい」
は…?
一度で彼の言うことを理解できなかった私は、彼の言葉の意味を反芻して考える。
おそらく鶴見副校長の言う「君たち」のうち、コーチは鶴見副校長の前に立っている、たしかコイトくん?と呼ばれていたスーツの男の子だろう。
私は生まれてこのかた、木刀も竹刀も持ったことなどないのだから。
そんな私が顧問というのもなぜ?という言葉しか思い浮かばない。
そもそも中学から高校まで私は吹奏楽部一本でやってきたごりごりの文化系だ。体育会系の部活とは縁がなさすぎる。
「え、っと…私が顧問って言ってるんですよね?」
「そうだ」
「たしかに私はまだ部活顧問の受け持ちはないですが…他にも適任はいるんじゃないですか?」
「例えば?」
例えば、と言われると困ってしまう。
体育の谷垣先生も武道系は得意と言っていた気がするけれど、山岳部の顧問でたしか5人目となるお子さんもつい最近生まれたばかりだし、前山先生は既に空手部の顧問だ。
私は順繰りに職員室の面々の顔を思い浮かべては、プライベートで忙しそうだったり、顧問を既に受け持っている人が多いことに気づく。
あれ? 余裕があるのってもしかして自分だけ?
鶴見副校長に返す言葉が見つからず私は押し黙るけれど、隙あらば反論するための材料を悶々とした表情で必死に探す。
スーツ姿の彼は、見苦しく粘る私のそんな様子なんてたいして気にも留めず、「鶴見先生のご指示とあれば」と恭しく礼をして快諾していた。
いやいや、さすがに謝礼の金額とか拘束時間とかもう少し色々確認したほうが良くない? 同じ社会人としては心配になってしまう。
そして彼は、相変わらず驚いて職員室側のドアの前から動けない私の方まで歩いてくると、「これからよろしく頼む」と笑顔で手を差し出してきた。
なによ、このイケメンオーラは…。直視できなくて、私は俯きながら「よ、よろしくお願いします…」と、差し出された手を握った。
くっ。これでは結局、鶴見副校長のシナリオどおりだ。
でも、こんなイケメンに手を差し出されているのに無視なんてできるわけがない。社会人として心配なのは私の方である。
…まぁいいか。
休日出勤も多い教師になってからというもの、友人と会う頻度は減る一方だし、閉鎖的な環境が故に彼氏もできやしない。
どうせ仕事一筋で生きていくなら、部活動の顧問の経験もしておくに越したことはないだろうし。
思い直した私はそっと彼の手から自分の手を離す。
でも、まさか、このささいな出来事で自分の運命が大きく動き出したなんて、この時の私は気づいていなかった。
平凡に生きて、独りゆっくりささやかな幸せを噛みしめる日々が、今日この瞬間で終わるなんて———。
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