冬に向けた支度
「———くしゅん!」
鯉登宅の居間に大きなくしゃみが響いた。
鯉登が非番の日の午後、居間で鯉登は新聞を読み、ナマエは鯉登の軍服にできたほつれを繕っているところだった。
「だいじょっか?」
「うん、でも今日はちょっと肌寒いね。いくつか服を重ねないとだめみたい。」
「とりあえず、おいの羽織を持っくっから少し待ってろ。」
一旦自分の羽織を取りに居間を出た鯉登は、数刻して再度居間に戻ってきた。
「ほら。」
裁縫仕事をしているナマエの肩に、自分の私服の羽織をかけてやる。
(音くんの服…大きくて良い香り…)
鯉登の羽織を貸してもらうと、大きさやにおいから鯉登が男性であることを意識してしまう。
「こっちん秋は本当て短けからな。あっちゅう間に寒むなって冬になる。…そういえば、ナマエは厚めの羽織は持ってきちょっのか? そん薄さの服だけでは、こっちん冬は凍えてしまうぞ。」
「私の実家ではここまで寒くならなかったから、実はこれよりも分厚い服は持ってきてないんだ。」
「そうじゃったのか…気が回らずにすまん。じゃったら、これから買いに行くか。」
鯉登は読んでいた新聞紙を乱雑にたたみ、小卓の上に置いて、立ち上がった。
「え、今から!?」
「なんだ、買うなら早めの方が良か。今先も言たように、こっちん秋は短け。おいの次の非番の日を待っちょったらもっと寒みなって、ナマエが風邪をひいてしまう。ほら、ナマエも出かくっ支度をしろ。」
当然、という顔でそう言った鯉登は、別室へ移動し出かける準備をしている。
まだ突然の外出に納得しきれていないナマエも、手に持っていた裁縫道具を簡単に片づけ鯉登の後を追い、出かける支度をした。
「くしゅんっ!」
家の中であれだけ肌寒かったのだから、当然家の外はもっと寒い。
今日は秋らしくよく晴れた雲一つない澄みきった空だ。
(日差しはあるのに、こんなに寒いなんて…! 北海道の寒さをあなどってたよ…。)
鯉登とナマエは鯉登宅から少し離れたところにある、鯉登の通いつけの呉服店へと向かっていた。
羽織を持っていないナマエは見た目からして寒々しく、鯉登は出かける前に再度自分の羽織を貸してやったが、人前に出ても不自然ではないよう、あまり男物すぎない見た目の薄めの羽織だったので、ナマエは寒さに耐えきれないようだった。
「ほら、やっぱい今日買け出て良かったじゃろ。あと数日もすれば、凍えて外になんち出られなくなってしまうぞ。」
「——はい。」
強引な一面のある彼だが、言っていることは一応正しいのでナマエは反論できない。
そうこうやり取りしているしているうちに、鯉登とナマエは目的の呉服店にたどり着いた。
「主人、いるか?急にすまない。実は妻が羽織物をまだ持っていないから、十分な暖かさのものを見繕ってやってほしい。」
鯉登は呉服店に慣れたように入ると、奥に座っていた店主であろう男性に声をかける。店主も鯉登の顔を見て、急いで立ち上がり明るく応答する。
「これはこれは、鯉登少尉殿!いらっしゃい!奥方様用の羽織物ですね?女性物はうちの家内に任せているので、少しばかりお待ちください。」
そういって店主は店の裏にいるであろう、自分の妻に声をかけた。
「おーい、お前。お客様が来たから頼めるかい?」
「はーい。」
返事から数刻後、裏から出てきた女性は笑顔でナマエを、「さぁさぁこちらへどうぞ。」と別室へ案内する。
こういった見るからに高級で質の良い呉服屋に慣れていないナマエは、自分がどうすればよいのかわからず、困ったように鯉登を見た。
「私はここで待っているから、気にせずゆっくり選んで来い。」
そう言って鯉登はナマエの背中を優しくポンっとたたいたので、ナマエは先程の女性のあとを急いで追った。
別室に入ると、ナマエは壁一面にきれいな女性用の衣服が洋装、和装ともに飾られているのに気づき、目を見張った。
とても値が張るものであろうということが、衣服に疎いナマエでもその布の質や色合いからなんとなくわかり、ナマエは緊張する。
「そんなに緊張しないでくださいな。羽織物と伺っておりますが、色や素材などの希望はございますか?」
「いえ。実は、あまりこういうお店には慣れていなくて…。」
「あらあら、可愛らしい!じゃあいくつか似合いそうなものを持ってきますね。若くて優し気な顔立ちだから、きっと明るい色の方が映えるわね。」
そう言いながら店の女性はあちこちの箪笥からあたたかそうな羽織物をいくつも取り出し、ナマエの方に持ってきた。
1つ1つナマエに羽織らせながら、おすすめする点などを女性が話していく。
そうこうしているうちに、ナマエもその場の雰囲気に慣れて、ある程度選択肢を絞り込むところまではできた。
ただ、1つがとても高いもののため、なかなか1つに絞り込めない。
(この白色も可愛いけど、長い間使えるのはこちらの鳥の子色かな…。でもこちらの薄紫色のもとても色合いが素敵。)
相当悩んでいるナマエの姿を見守りながら、女性はひとつ提案した。
「こんなに色々あれば悩んでしまいますよね。ここは旦那様に聞いてみるというのはいかがかしら?」
「音之進様に・・・?」
「ええ。悩んでるのはこちらの3つよね?羽織は私が持つので、こちらに来てくださいな。」
そう言って、女性は鯉登が待っている店頭までナマエを案内した。
店頭に行くと、鯉登は店主と最近の政治情勢の話などを真面目な顔でしていたが、ナマエが奥にある別室から出てきたのを見て、先ほどの真面目な顔から一転、ぱっと笑顔になる。
「どうだ、決まったか?」
「いや、実は全然決められなくて…。」
「そうなんです。とても悩んでらしたので、旦那様のご意見も伺ってみたら、と提案させていただきました。」
店の女性がそう言って、別室から持って来た3つの羽織を見せる。
「そうか。女性の衣服には私も詳しくないが…。」
「まぁまぁ、とりあえず見てくださいな。」
女性はナマエに羽織物を1つ1つ掛けて、鯉登の様子を伺った。
ナマエは女性に任せてひたすら着せ替え人形のように黙ったまま、自分も鯉登の様子を伺う。
鯉登も最初はよくわからんな、という顔をしていたが、最後の3着目を着た時にふっとナマエに対して見惚れた顔になった。
「こちらが旦那様の好みかしらね?」
ふふっと笑いながら女性が言う。
表情で自分の気持ちが筒抜け状態な鯉登は、恥ずかしい気持ちを隠すようにナマエに話しかけた。
「私はとてもよく似合っていると思うが、ナマエはどうなんだ? ナマエの羽織物だから、ナマエの好きにした方が良い。」
「私はこの3つの羽織、正直全部きれいだな、と思って1つに決められず悩んでたの。だから、音之進様がよく似合っていると言ってくれたこの最後の羽織が良いです。」
「わかった。では、店主こちらの羽織をいただこう。ナマエ、外で少しばかり待っていてくれ。」
羽織物を脱いだナマエは、店の女性にお礼を言って、店の外に出た。
店の女性は「とんでもない、また来てくださいな。」と笑顔で送ってくれた。
数刻もしないうちに会計を終わらせた鯉登も店から出てきて、2人で自宅への帰路を行く。
「音くん、今日はありがとうね。」
「元々は、おいが気づかんこっが発端じゃっと。でも、こいで冬支度はできたな。」
「うん!早くこの羽織物を着て、音くんとおでかけしたいな。」
「どこでん連れ行っやるが、北海道の冬は寒みぞ?」
「天気が良い日を選べば大丈夫じゃないの?」
完全にこちらの冬を舐めているな…と半ばあきれる鯉登だったが、あまりにもナマエが一緒にでかけるのを楽しみにしていそうなので、やれやれと優しい表情でナマエを見つめる。
(月島か谷垣にでもおすすめの場所を聞いておくか———。)
季節はまだ秋だが、着実に冬に向かって人も自然も動き出している。
木枯らしが吹く中、寒さが苦手な鯉登は鯉登で、独り身の時では考えられなかった冬のナマエとのおでかけ計画を立てようとするのだった。
END
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