第7話 ゆるんだ隙にあなたは私の前に佇む
いつもそうだ。
鯉登くんとの仲が親密になるにつれて、必ずと言っていいほど邪魔が入る。
私はデスクの上の卓上カレンダーに書き込まれた明日の日付から3日間にわたる矢印と、その上に書かれた”定期テスト”という文字を睨みつけた。
もちろん、書いたのは私なのだけれど。
この私立金塊高校では、定期テストの準備期間とテスト最終日までは一切の部活動が禁止されている。私が4月から顧問を引き受けた剣道部もその例外ではなく、部活動が休止してからはや一週間が経とうとしていた。
それに伴って、コーチの鯉登くんとももうしばらくは顔を合わせてはいない。
部活動が休止になってすぐに彼から≪夜遅く帰ることがあれば絶対に言うように≫と連絡がきたけれど、私が≪部活動ないし授業も自習ばかりだから、遅く帰ることはないよ。大丈夫≫と返して以降は、連絡がないままだ。
定時ちょうどに私がため息をつくと、隣の席の前山先生がいつもどおり荷物をまとめて席を立とうとしていた。
「あれ、○○さん、まだやってくの?」
「いえ、私もそろそろ……。あとは3年生用のテスト用紙を印刷したら帰るつもりです」
「良かった。準備期間って授業時間も短いし、やることやっちゃえば結構早めに帰れるから、○○さんもほどほどにね。残ってるときに限って厄介な電話とかかかってきたりするもんだからさ。それじゃ、僕はお先に」
「お疲れさまでした」
前山先生はテスト期間に限らず、だいたい定時で帰っているように思うけれど……と失礼なことを考えながら、職員室を出ていく彼の背中を見送る。
前山先生と同じく、他の先生も華麗に定時であがっているのだろう。職員室にはほとんど人は残っていなかった。
静かな職員室で、私はテスト用紙の内容を再度問題ないか見直す。3年生の定期テストの結果はもろに内申点に関わるので、よりいっそう注意を払う必要がある。
ざっと用紙に目を通していると、いきなり目の前の固定電話がけたたましく鳴りはじめた。
なぜだろう、前山先生と直前まで話をしていたこともあって、嫌な予感がする……。
鳴りはじめてちょうど3コール目、私は受話器をとった。
◇
「はあぁぁ」
嫌な予感ほどあたるものはない。
電話は前山先生が言っていたとおり、まさに厄介な電話以外の何物でもなかった。
3年生の生徒をもつ母親からかかってきたその電話は、内申点のつけ方の仕組みを納得できるように教えてほしい、やら、うちの子は不当に低すぎるから今回のテストで調整してほしいというもので、「私個人の裁量で教えられることではないので……」とかわそうとしたけれど、逆に「あなたみたいな裁量がない人に内申点をつけられるこちらの身にもなってよ!」と火に油を注ぐ結果になってしまった。
救援を呼ぼうと私が職員室を見渡した時には不穏な気配を察知したのか他の先生方もみんな帰宅していて、結局、私がその苦情から解放されたのは夜10時過ぎだった。
家の最寄り駅についた頃には、11時過ぎ。
もう身も心もくたくただ。
こんなことになるのであれば、前山先生の言うとおり定時で帰るべきだった。
早く帰ってお風呂入って、ご褒美にビールかアイスをキメよう。今日という日を終えるには君たちの力が必要だ。
そんなことを考えながら、私は真っ暗な家までの道を進み、ちょうど駅と家の中間地点に位置する公園の目の前を通った。
人のいない真っ暗な公園は、ちょっと不気味で苦手意識がある。私は公園からなるべく目を逸らし、少し歩調を早めて公園を通り過ぎようとした。
そのとき、後ろから突然腕を力強く掴まれた感覚がして、私は思わず息を止めた。
仕事終わりでくたくたの私には抵抗する余力なんてなくて、何者かに引っ張られるまま人気のない公園の茂みの中に引きずり込まれる。
気づけば私の視界は反転し、地面を背に曇った暗い夜空を見上げていた。
すると、どこかで見覚えのあるような顔の中年男性が私の上に覆いかぶさってくる。
私は疲れた頭で、自らの記憶を一生懸命辿った。
この人は……。
たしか、以前、私のことを襲ってきて鯉登くんに退治されてた……
「あなた、あの時の…!」
「今日は1人なんだな。ずっと張っていた甲斐があったぜ…」
「いや、離して……!」
気づいたときにはもうすでに遅かった。
覆いかぶさった男性の手が、執拗に私の身体を這いずり回る。
——ずっと待ち伏せされていたんだ。
いつもは鯉登くんが送ってくれるか、定時で帰っていたから気づかなかった……。
助けを呼びたいけれど、恐怖で身体が震えてしまい、手も声も出せない。
私の上に馬乗りして舌なめずりしている男性が気持ち悪くて、ただただ不快で、でも、自分の力ではどうしようもなくて……。
「あぁ、今日は本当についていないな」なんて悪態を頭の中でしかつけずに、暴漢にされるがままになってしまう。
暴漢が服の下に手を入れてきた瞬間、気持ち悪さは頂点に達した。こんな状況でも、少しも動かない自分の身体が憎い。
私は耐えるようにぎゅっと目をかたく瞑るしかなかった。
そのとき、脇腹を撫で上げていた男性の手が急に止まった。
すぐあとに「痛っ!」と大きなわめき声が聞こえたかと思うと、馬乗りされていたはずの身体が軽くなるのを感じる。
そっと目を開けると、私の隣には先ほどまで上に覆いかぶさっていた中年男性が倒れていた。完全に気を失っているのか、目を覚ます気配はない。
何が起きているかわからずきょろきょろと辺りを見回すと、斜め後ろから見慣れた褐色の手が伸びてきて、その手の主を求めるように私は視線を上げた。
いつだって私を助けてくれるのは、彼しかいない。
「っ鯉登くん……!」
「大丈夫か⁉ 酷いことはっ、」
竹刀を片手に膝立ちで私のそばにしゃがむスーツ姿の彼は、いつもの泰然自若とした性格からは考えられないような焦った表情をしている。
久しぶりに彼の顔を見た瞬間、私は色んな感情がない交ぜになって、考えるよりも先に彼の首に腕を回し、縋りつくように彼の胸へと飛び込んだ。
照れた時には「キェッ!」と小さく叫ぶ鯉登くんも不思議と今日は静かで、壊れ物でも触るみたいに優しく私の背中へと手を回してくれる。
彼の体温が私の恐怖で強張った身体をじんわりとあたためてほぐしてくれて、私はその安心感で思わず涙が溢れてこぼれてしまう。
「……怖かったな。助けるのが遅くなってすまない」
耳元で囁く彼の声は、少し掠れていた。
鯉登くんは何も謝る必要などないのに優しく謝るものだから、私はこくん、と頷くことしかできない。
この際、前みたいに思いっきり叱ってくれれば、私だってあれこれ言うことができるのに。
その体勢から10分程経った頃だろうか。
彼にしばらく抱きしめられているうちにだんだんと冷静になった私は、私たちの隣で伸びている男性を横目に、「ごめんね」と少し鯉登くんの身体を押して少し離れる。
鯉登くんは言いづらそうな様子でまごつきながら尋ねてきた。
「その…身体の方は大丈夫か……?」
「うん。服に手を入れられたところで、鯉登くんが助けに来てくれたから。大丈夫」
「そうか……。間に合ってよかった」
鯉登くんは私の肩に両手を置き、安堵のため息をつくのと同時に脱力したように私の方へと顔を埋めた。彼の前髪が首元に触れくすぐったく感じながらも、私は彼の彼の背中に腕を回す。
「一度痛い目を見たから心配はないと思っていたが、これは警察に通報したほうが良いな。また襲ってくるかもしれない」
しばらくして彼は身を起こすと、私の方から隣で伸びている暴漢の方に視線を移し、険しい目つきをしながらスーツの胸ポケットからスマホを取り出して、どこかへ電話をかけはじめる。口ぶりからして警察へ通報しているみたいだ。
私よりずっと冷静な彼は、私の代わりに電話越しの相手へ簡潔に状況や場所などを説明すると、電話を切った。
一段落したところで、私は先ほどから疑問に思っていたことを鯉登くんに聞いてみる。
「それより鯉登くん。なんで、こんな時間にこんな場所にいたの?」
そこそこ大きい都会の駅なら偶然と言われても納得するけれど(いや、それでも若干の疑問はよぎるけれど)、こんな住宅しかないような郊外の駅に偶然いて鉢合わせた、というのはいささか妙である。
鯉登くんは「あぁ、それは」と悪びれる様子も何もなく話した。
「ナマエの言う”大丈夫”が当てにならないということは、ここ1、2か月で充分学んだからな。谷垣にお願いしてナマエの帰りが遅くなりそうな日があれば連絡しろ、と言っておいた」
…。
……。
…えーっと?
私はどこから突っ込めばいいかわからなくて、彼のその言葉にぽかんと口を開けて固まってしまう。
たしかに、ここ数日はやけに谷垣先生から「今日は早く帰れそうか?」などとなぜか確認されることが多かったし、定時後に少しでも残っていれば谷垣先生からの熱い視線を感じた、ような気がする……。
でも、それって関係性は異なれど、端から見れば同じストーカーの一種では…?
あっけにとられる私の手を彼の大きい手が優しく包む。
「今日に限って谷垣の奴の連絡が遅かったんだ。奥さんが風邪を引いて子どもの迎えや晩御飯づくりなどしていたなどと抜かしよって……」
悔しそうに唇を噛んで眉を顰める鯉登くんだけれど、それは許してあげてほしい。なんなら私も今日、自分がこんなに夜遅くなるなんて思わなかったから。
むしろ私の不測の残業を予想できた谷垣先生には感謝しかない。
「……何はともあれ、鯉登くんが来てくれて良かった。前もそうだけど、本当に鯉登くんには助けられてばっかりだよ」
溢れて止まらない彼への感謝の気持ちを、彼の目を見つめながら改まって言う。
「ありがとうね」照れくさそうに笑う私を、真剣な表情で彼は見つめ返した。
あまりにも真面目な顔をして無言のまま彼が見つめてくるものだから、張り詰めた空気が2人の間に漂う。誤魔化すように私は別の話題を振ろうとするけれど、彼の真っすぐな眼差しと私の手を握る彼の熱い手が、それを拒む。
「……こんな時に乗じて言うのは本来なら私の主義に反する。だが、後悔したくないから言わせてほしい」
「う、うん…?」
主義とか後悔とか、それらの難しい単語を急に出されると、たじろいでしまう。
「ナマエと一緒にいる時間が楽しくて、いつの間にか隣で笑うナマエを守りたいと思うようになった。大丈夫じゃないのに大丈夫というところも、生徒のために残業をする真面目なところも、全部が愛おしくてたまらない。私と、付き合ってはもらえないだろうか」
彼はゆっくりとした口調で確かにそう言った。
突然のことで私は理解が追いつかず、しばらく呆然と彼を見返すしかできない。
『私と、付き合ってはもらえないだろうか』
私と…
付き合ってはもらえないだろうか…
ようやく理解が追いついてもなお、数秒間、彼と無言のまま見つめ合う。
教師としての体面とここ1、2か月のうちに変わり続けてきた自分の気持ちとが胸の中でせめぎ合い、栓のようにつっかえる。
鯉登くんは真剣な相貌を崩すことなく、静かに私の返事を待っていた。
心の中の栓を取り除くのは、私の覚悟次第だ。
「わ、わたしも…」
覚悟を決めた私がようやく返事をしようとゆっくり口を開いたその時、「すみませーん!」とどこからともなく若い男性の声が聞こえて、私たちははっとして急いで手を離した。
たしかこんなこと、前にもあったな……。
私は過去の資料室の一件を思い出しながら、鯉登くんから目を逸らし、声の主を探す。
「通報いただいたコイトさん?とそのお連れの方で合ってますか?」
制服を着ているので、私は近づいてきたその男性が警官だとすぐにわかった。「は、はい!」と、何もなかったように取り繕った返事をする。
鯉登くんの方をチラッと一瞥してみると、名残惜しそうに私の方を見つめていた。
ごめん、鯉登くん。今日の勇気は先ほど覚悟を決めるときに使い果たしてしまったみたい。
悔しそうにして終始ご機嫌斜めな鯉登くんと、顔に熱を帯びたまま心ここにあらずの私。
事情聴取が捗らず困った顔をした警官の男性に同情の念を禁じ得なかった。
つづく
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