第2話 何人たりとも許したくなかったスペースへの侵入
新設する剣道部の顧問を任されて早3日が経った。
私は日常の授業とその準備に+αする形で、剣道部の新たな練習場所の使用許可の取得だとか部員たちの取りまとめ、備品の購入などなど、部活動開始のためにやらなければいけないことが大幅に増えてしまい、この3日間文字どおり休む暇もなく終電で帰る日々が続いている。
そもそも、剣道経験者でもない私が諸々の手続きや準備をするにはわからないことが多すぎる。
カーボン竹刀や竹刀削りっていったいなんなんだ……。
ネットでわからない単語を調べても、さらによくわからない単語で解説されている記事しか見当たらず、ため息しか出てこない。
それが剣道において、必需品なのか、別にたいしてなくても困らない品なのかがわかればよいだけなんだけど…。
適当に色々買っちゃえば?と隣に座る前山先生がパソコン画面を前に悶々と悩む私に言うけれど、大事な生徒たちの部費や学校からの援助金を適当な品の購入資金に充てることはしたくなくて、私の作業はここ数時間滞ったままだ。
自動販売機で購入した今日何本目になるかもわからない栄養ドリンクを開けて寝不足の身体に流し込み、職員室の自席でため息をつく。
あと少しで、貴重なお昼休みも終わる。
「おい、疲れた顔してるけど大丈夫か?」
ちょうど私の席の後ろを通りかかったジャージ姿の体育教師・谷垣先生が、心配そうな様子でこちらの顔を見下ろしてきた。無視できないほどに視界の大半が彼のむちむちと大きい熊のような身体で埋まり、反射的に私も上を見上げる。
相変わらず大きな身体だなぁ。
「……ちょっと色々あって、残業が続いてまして」
「鶴見副校長から聞いたよ。鯉登くんと一緒に剣道部を新設するらしいな」
「谷垣先生、彼を知っているんですか?」
コイトくんとは3日前の副校長室で会った日以来、顔を見ていない。
ビジネススーツを着ていたわりに、平日にある部活のコーチを快諾する彼は普段いったい何をしている人なのだろうか。そして、なぜ彼がコーチに抜擢されたんだろうか。
「あぁ。鯉登くんは若いながらに自顕流という古流剣術を免許皆伝していてな。界隈では知らない人はいないくらいの有名人だよ。いろんな剣道の大会で優秀な成績を収めているし」
「そうなんですね。私、最初に会った日から彼に会ってなくて……」
「疲れたように見えるのも、部活動の諸々の手続きが原因だろう? 彼に一度相談してはどうだ? 変わってはいるけれど、悪い人じゃないから」
「うーん。彼はたぶん普通の会社員だと思うし、あまり学校のことで頼りにしてしまうのは、」
私の言葉を最後まで聞かないうちに、谷垣先生は私に背を向けて自席に置いたスマホを手にとると、どこかに電話をかけはじめた。何度か言葉を交わしているようで、その様子を私は遠巻きに見つめる。数分のうちに会話は終わり、スマホを置いて戻ってきた。
「鯉登くん、今日夕方学校に来るって」
「え?」
良かったな、そう笑顔で手を振ると、谷垣先生は午後の授業に向けて職員室を颯爽と出ていく。
突然のことにただただ呆然と彼の消えゆく背中を見ていた私も、午後の授業が迫っていることに気づいてすぐに支度をし、職員室を出た。
……いやいや、少し突然すぎませんか、谷垣先生。
コイトくんもコイトくんで、なんでこんな急な招集に気軽に応じられるんだ。通話時間1分もしてなかったよ?
私はまだ陽が高く電気がついてなくても明るい廊下を早足で進むと、深呼吸をして教室のドアを開ける。
さぁ、授業は授業。頭を切り替えなくちゃ。
そう自分に言い聞かせるも、すぐムチムチと体格の大きい谷垣先生とコイトくんの笑顔が順番に頭の中に浮かんできてしまう。
結局、その日の午後の授業は、やけにおせっかいな谷垣先生の笑顔が何度もちらついて、集中できないまま過ぎていった———。