「あっ、もうこんな時間! 夜遅くまで色々聞いちゃってごめんね」
ふとパソコンから目を離した私は、職員室の時計が22時を回ろうとしていることに気がつく。
しまった。最近は終電が当たり前すぎて、まったく時計を気にしてなかった。
「問題ない。それよりもう質問はいいのか?」
「うん、ひととおり聞きたかったことは聞けたから大丈夫。鯉登くんのおかげですごく助かったよ。本当にありがとう」
夕方からぶっ通しで話し、少しではあるが彼と打ち解けていた私は、嘘偽りなどない心からの感謝を口に出す。こんなことならもっと早く彼を頼ればよかった。
そして、コイトくんの名前も聞けた。鯉が登ると書いて、”鯉登くん”。めずらしい名前だ。
なんでも彼の親が経営者で、彼自身もその会社に勤めているから、ある程度の自由は許されているらしい。それで、コーチの件も今日の件も都合をつけて引き受けてくれたという。
時間の融通が効く仕事なんて羨ましいかぎりだ。
よし。これで部活の方は大丈夫そう。あとは、授業の準備さえ終われば…。
私は彼に帰る支度をするように促しつつ、まだ採点の終わっていない小テストに取りかかろうと、解答用紙の入っているトートバッグに手を伸ばす。
「まだやっていくのか……?」
スーツに薄手のコートを羽織り、手にビジネスバッグを持った彼は、そそくさと次の作業に着手しようとする私の様子を見て、眉をひそめて尋ねてくる。
「うん。教師だから一応こっちが本業」
えへへと笑いながら、赤ペンを鯉登くんに見せる。
彼はそんな私を見つめて眉間の皺をいっそう深くすると、再び先ほどまで座っていた前山先生の席に腰をおろして座り直した。
「?」
「…もう夜も遅いし、送っていく」
「え⁉ いいよいいよ! 最近はずっとこんな感じだし、大丈夫。私に付き合ってると鯉登くんまで帰りが遅くなっちゃうよ?」
「でも、ナマエの家族や友人や、…その恋人とか、も心配するだろう」
「いやいや、両親は2人とも数年前に亡くなったし、兄弟もいないし、仕事に没頭しているうちに友人もだいぶ減っちゃったし彼氏ともずいぶん前に別れたっきりで、心配する人なんていないから気にしないで。本当に大丈夫!」
いったいそれの何が大丈夫なのか、自分で自分に突っ込みたくなるがしょうがない。本当のことだもの。
作り笑いをしながら、私は抵抗する彼の背中を職員室のドアまで押していく。
「お、おい!」
俯く私に押されるがままだったのに、彼はぐっと身体に力を込めて、職員室のドアのところで踏みとどまった。びくともしなくなった背中を不審に思った私は彼の顔を見上げる。
彼は勢いよくこちらを振り返ると、優しいけれど毅然とした口調で話す。
「ならば、生徒や他の先生方が心配するだろう。私も、こんな夜遅くに女子を1人で帰すのは心配だ」
彼の言葉を聞いて、今までぐいぐいと背中を押していた私の腕の動きがぱたりと止まる。社会人になってからというもの、社交辞令などではなく他人から本気で心配されることなんて初めてかもしれない。
私は自分の思う以上に、鯉登くんの言葉に心を大きく揺さぶられていた。
私の動きが止まっている隙に、彼は身を翻して前山先生の席の方へ戻って行き、私に無理やり押されたことで乱れたコートをもう一度脱いで、荷物を下ろした。
「ほら、私は適当に時間をつぶしてるから気にせず早く仕事を片付けろ」
困ったように微笑みながら投げかけられた彼の言葉には、社会人特有の社交辞令は感じられない。真っすぐな優しい彼のその振る舞いに私はなんて返せば良いかわからなくて、相変わらず俯きながらゆっくりと頷くと、席へと戻って赤ペンの蓋をポンっと開け採点をしはじめた。
職員室にはペンを走らせて採点する音しか聞こえず、なんだか落ち着かない気持ちになる。普段であれば休憩と称してお気に入りのカフェインレスのカフェオレでも淹れたいところだけれど、待ってくれる彼の前でそれをすることは憚られて、私はひたすらに目の前の仕事をこなしていく。
鯉登くんは時計の針が24時を超える少し前、私が採点を終えるまで一緒に職員室に残ってくれていた。
仕事を終え、彼とともに真っ暗な校舎を出ると、わが校のささやかな来客用の駐車場になぜか運転手付きの車が停まっていた。こんな時間に来訪者などいるはずもないので、私の採点中に鯉登くんが手配してくれた迎えの車なんだろうと瞬時に理解する。
黒塗りの大仰な車で出迎えられるなんて、大学生時代に女友達とやったリムジンパーティー以来、初めてだ。
夜の学校に高級車が止まっている光景は、シュールを通り越してもはや恐怖まで感じる。
「これは……?」
「うちの車だ。遠慮せず乗ってくれ」
笑顔で乗るように促され、おずおずと後部座席に乗る。運転席には髭の生えた男性が座り、ハンドルを握って待ってくれていた。
「どちらまで参りましょうか?」
「え? あー、えっと、○○駅まで…「駅に住んでるのか? 家まで送ると言っただろう」
遠慮して最寄りの駅の名前を言った途端、すかさず口を挟んでくる鯉登くんに負け、おとなしく住んでいるアパートの住所を正直に運転手さんに伝える。
運転手さんは私の住所を手際よくナビに入れると、後部座席、私の横に座った鯉登くんの方へルームミラー越しに目線を合わせる。
「じゃあ出しますよ。鯉登さん」
「あぁ、頼む。月島」
鯉登くんの言葉のあと、すぐに車は発進した。
揺れる車内に沈黙が走る。
鯉登くんは窓の外を眺めたあと、しばらくして静かに口を開いた。
「明日からも残業が続くのか?」
「ううん。残業はしばらくしなくて済みそう。今日鯉登くんが手伝ってくれたおかげで部活動の方は目途がついたから」
「そうか、ならよかった」
私の言葉に、彼は窓から目を離して、私の方に笑いかける。
暗闇の中で街灯に照らされた彼の笑顔はとても眩しく見えて、つられるように私の口元も緩む。
「…そういえば、その、」
思い出したかのように突然彼が戸惑いながら言うので、私は「?」という表情で彼の方を見つめる。
「先ほど、友人も恋人もいないと言っていたが……」
「あぁ、それ初対面なのに話しすぎちゃったよね、ごめんね」
勢いとはいえ、初対面の相手に身の上話をしてしまったことを恥じた私は早口で弁解する。
「いや、なんというか、意外だと思っただけだ。すまない。あまり踏み込まれたくなければ、無視してくれて良い」
「全然いいよ。元はと言えば自分で話し始めたことだし。……教師って、さ。今日もそうだけど、突発的な残業はもちろん、休日出勤もよくあるんだ。だからせっかく夜ご飯とか遊びに行く約束とかしてもドタキャンしなきゃいけないことも多くて、そうしてるうちに皆と疎遠になってきちゃって」
「そうか……」
「あ、でも後悔とかはしてないよ! 仕事を一生懸命やりたいって気持ちはずっとあるから。それに、教師という職業が好きなんだよね。私は平凡に、平和に暮らせればそれでいいし。夜景が綺麗に見える高級レストランで突然プロポーズされるとか、よくSNSで見るけれど私には夢のまた夢。ささやかで身分相応な幸せを噛みしめるのが好きだし性に合ってる」
鯉登くんになるべく気を遣わせないようにしようと、私は努めて明るく振る舞うけれど、そんな私の思いとは裏腹に彼は深刻そうに何かを考えはじめる様子だったので、慌てて「そういえばさ、」と別の話題を振る。
鯉登くんと話していると、不思議とあっという間に時間は過ぎていった。
24時を時計の針がだいぶ過ぎた頃、車は私のアパートの真ん前に止まり、私は鯉登くんと運転手さんにお礼を言って、車を降りようとドアを開ける。
その瞬間、後ろから力強く腕を掴まれ、手に何かを握らされる。感触からして紙、だろうか。
なんだろう?と私は、隣に座る彼の方を振り返る。
「もう少し、私や周りの人間を頼れ」
彼は真っすぐ私の目を見つめてそれだけ言うと、腕を離した。
突然の彼の言葉に「う、うん」と無難な返事しかできない私はそっと車を降りる。彼へ何か気の利いた返しをしようと考えながら振り向いた時には、車はすでに走り去った後だった。
突然来たと思ったら、気づけば既にいなくなってる。
彼は本当に嵐みたいな人だな…。
……そういえば、先ほど別れ際に彼に握らされたものは何だったんだろう?
私はそっと手のひらを広げる。
そこにはLINEの連絡先とスマホの電話番号が達筆な文字で書かれている紙の切れ端があった。
『悪い人じゃないから』
容姿と同じく綺麗に整ったその文字列を見つめながら、お昼休み中の谷垣先生の言葉が頭にチラつく。
たしかにそうだけれど。
私は鯉登くんから渡された紙をぎゅっと握りしめる。心臓が飛び出てきたみたいに、やけに自分の鼓動がうるさいほど大きく聞こえる。
『もう少し、私や周りの人間を頼れ』
きっと彼にとっては何気なく発した一言に過ぎない。でもその何気ない一言で、私の心はこんなにも動かされている。
違う違う。そんなんじゃないってば。
私は必死に自分にそう言い聞かせると、自分の気持ちを見て見ぬふりしたまま自分の部屋へと足を踏み出した。
つづく
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