第3話 あるけれど無いことにしたいもの
「じゃあ、私は職員室に戻るので、生徒たちの指導、よろしくお願いします」
「あぁ。何かあったら職員室に行くようにする」
「はい。それでは」
一種のけじめをつけるためにも、相手が年下であろうが同い年であろうが生徒の前では敬語で話すように心がけている。もちろん、それは鯉登くんに対しても例外ではない。
加えて、先日鯉登くんに帰りを送ってもらってからというもの、どこか彼を意識してしまう自分がいる。仕事一筋で生きていこうと思っている私は、同じ部活動のコーチである鯉登くんへの気持ちが大きくなる前に、なんとか彼と一定の距離を保つよう努めていた。
彼からもらった連絡先の書かれた紙も、バッグの内ポケットに入れたままだ。
私は部活動が始まる前、生徒たちへコーチである鯉登くんを紹介したあと、今後の流れについて彼と話す。
さすが、長い間剣術をやっていただけあって、鯉登くんは剣道着姿がよく似合う。彼を真正面から一瞬でも見てしまうと、どぎまぎしてしまって始末に負えない自分の性格を、私は重々承知している。
緩む口元を彼にも生徒にも見られたくない私は、失礼を承知しながら彼の方から思いっきり目を逸らせて生徒たちのことを頼むと、急いで回れ右をし、靴を履いて剣道部の練習場を後にした。
職員室にたどり着いた私は、いつもどおり給湯室であたたかい飲み物を淹れようとマグカップを手に取った。部活動のことは鯉登くんにほとんど任せばいいだろう。行ったところで初心者である自分があまり役に立てるとは思わない。
部活が終わるまでは明日の授業の準備でも進めるか…。そう考えながら、給湯室に入る。
そうだな、今日はこの前他の先生からいただいた紅茶でも淹れよう。私は棚の手前に置かれた可愛らしい缶に入ったティーバッグを1つ取り出す。
マグカップにティーバッグを入れてお湯に浸している間、体育教師の谷垣先生が給湯室に入ってきた。
相変わらずムチムチとした大きい体つきで、狭い給湯室は彼1人が入っただけでいっぱいになってしまう。
「彼とはうまくやれてるのか?」
隅っこの方で身体を縮める私に近況を尋ねながら、彼は給湯室の流し台でお弁当箱を開けると、スポンジで綺麗に洗っていく。
毎日愛妻弁当を作ってくれる奥さんの家事を少しでも軽減したくて、毎日帰り際にお弁当を洗っているのだ。こんなに荒々しい見た目なのに理想の旦那さんすぎて、奥さんが羨ましいと思ってしまう。
「えっ⁉ いや、うまくやれてるなんて、そんなっ、」
「? でも、今日から無事に部活動、開始できたんだろ?」
あぁ、部活のことね…。谷垣先生の言葉に過剰に反応してしまった私は、恥ずかしさを誤魔化すために台拭きを手に取ると、別にしなくてもいい水回りの掃除をし始める。
どうも最近の私はずっとこんな感じで、1人で盛り上がっては、1人で恥ずかしがって、1人勝手に収束する。
そんな慌てふためく私の様子などたいして気に留めることもなく、手際よく洗い物を済ませた谷垣先生は「彼のあんな楽しそうな姿久しぶりに見たよ。彼によろしく言っておいてくれ」
そう言って、笑顔のまま給湯室を出ていった。
谷垣先生がいなくなってがらんと空いた給湯室で、またもや真っ赤になってしまう私。まったく、谷垣先生はお節介と余計な一言が多い。
あれ、そういえば。
自分がずいぶん前にお湯へと浸していたティーバッグのことを思い出す。
あぁ、悶々と考えているうちにやってしまった。
私はとても色濃く淹れられてしまった紅茶を覗き込むと、深くため息をつく。
鯉登くんのことを考えていると、自分が自分じゃなくなっていくみたいだ。