私は明日の授業で配布する予定のプリントを生徒の人数分印刷し終えると、チラッとコピー機の上に提げられた時計を見る。そろそろ部活が終わる時間だ。
剣道場の使用許可の関係上、18時までには片づけまで終えてください、と鯉登くんには言ったけれど大丈夫だろうか。
初日だし、さすがに見に行った方がいいかな?
私はコピー機から吐き出された分厚いプリントの束を自席に置き、机に置いていたスマホをズボンのポケットに入れて、職員室のドアを開ける。
ところが視界が突然真っ暗になって———
ドンッ——!
「ぎゃっ!」
何か壁のようなものに当たった気がして、驚いた私は反射的に叫ぶと同時に、ぎゅっと目を瞑る。
「大丈夫か⁉ すまない!」
どこかで聞き慣れたような声がすぐ上の方から降ってくる。
そっと目を開けると、そこにはスーツ姿の鯉登くんが立っていた。申し訳なさそうな顔をして、高い背をこちらを覗き込むようにかがめている。
か、顔が、近い……!
「わ、私の方こそごめんね! 急いでドアを開けたから…」
自分の顔に熱が一気に集まるのを感じて、私はすぐに身を引き彼から顔を離す。さっきぎゃっとかなんとか女子らしからぬ叫び声を上げてしまったような気がして、合わせて恥ずかしい気持ちになる。
私はなんでもない風を装うと、できるかぎり鯉登くんと目を合わせないように気をつけながら彼の方へ尋ねた。
「部活の方は大丈夫そう? ちょうど今向かおうと思ってたんだけど…」
「あぁ。生徒は全員帰らせた。それより怪我はしていないだろうか」
「ありがとうね。 私は大丈夫だよ! 全然へいき!!」
「ほら、このとおり」とドアの前でぶんぶんと腕を回して見せると、視界の端っこで心配そうにしていた彼の顔が破顔して、「そうか」と優しく言う。
こちらがどれだけ顔を背けようが逸らそうとも、視界の隅にわずかに映ったその鯉登くんの輝く笑顔だけで、こんなにも私の心臓は大きく脈打つ。
「今日は手伝うことはあるか?」
「ううん! 鯉登くんがちゃんと生徒のこと見てくれたおかげで、その間に仕事もだいぶ片付けられたから、今日も残業しなくてすみそう。本当にありがとうね」
彼の真っ黒な瞳を見つめながら心からの感謝を伝えると、彼は「キェッ!」と小さく叫んで顔を真っ赤にした。最近気づいたけれど、彼は変なところで照れ屋なところがあって、よくわからない独特な叫び声をたまに上げる。
「っ! それじゃあ、私はこれで失礼する」
鯉登くんは顔を真っ赤にしたまま踵を返すと、学校の出入口へと向かって帰っていく。
私は彼を職員室のドアから見送ったあと、ふらふらと自席へ戻り、古めかしいデスクチェアに身体を預けた。
危ない。あまりの彼のかっこよさと顔の近さに、危うく頬を緩めてしまうところだった。生徒もいる学校の中で、だらしない姿は見せられない。
でも、鯉登くん、意外と…。私は先ほど彼にぶつかったときに触れ合った感触を思い出して、再び顔に熱が集まる。
普段細身のスーツを着こなす彼はそこまで大きな体躯には見えないのに、不意にぶつかったその身体は頑丈でびくともしなかった。
…落ち着け、私。
鯉登くんには残業しないとは言ったけれど、定期テストも近い今、やらなければいけない仕事はそれなりにある。
こういうのは意識したほうが負け。鯉登くんのことは一旦忘れて仕事に集中しなければ。
我に返った私は、自分の顔をしっかりしなさいとでもいうように軽く叩く。
そうして、既に帰って空席になった隣の前山先生の机を羨ましそうに眺めながら、先ほど印刷して机の上に乱雑に置いたプリントの束をトートバッグの中へと押し込んだ——。