はぁ…。結局、作業に集中してたらこんな時間になっちゃった。
私はコンビニのビニール袋を提げて、最寄駅から家に向かって暗い夜道を1人とぼとぼと歩く。
時刻は24時を少し回る頃。
さすがに初夏と言っても、太陽が沈んだあとのこの時間はまだ肌寒さを感じる。
早く帰って、先ほど買ったコンビニご飯でも適当に食べたあとは、あたたかいミルクココアを入れてのんびりしよう。
そう思い、私は家路を急ぐ。
けれど、そろそろ自分のアパートが目に入る距離になってきたという頃合いで、私はふと後ろから誰かにあとをつけられているような違和感を感じた。
そう、あくまで違和感。
私の気のせいかもしれない。いや、むしろ、そうであってほしい。
でも、そう思えばそう思うほど気配は、たしかな足音や人の息遣いと言う形で現実味を帯びてきてしまう。
私は試しに今までの早足から少し歩調を落としてみる。
ただ帰り道が同じ方向なだけであれば、さらっと抜いてくれるはずだ。
でも、私の期待とは裏腹に、私の歩調に合わせる形で背後を歩く何者かの気配も同じくスピードが落ちたように感じた私は、ますます疑念が確かなものになってしまう。
これって、もしかしてストーカーとかそういう類のやつ?
20数年生きてきて初めてだ。こういうときにどういう行動をとればいいか正解がわからず私は逡巡する。
どうしよう。このまま家に帰るのって危険だよね……。
走って逃げるべき? 逃げるってどこへ?
とりあえず、交番とかコンビニとかに向かえばよいのだろうか。
考えがまとまりきらないうちに、私は怖くなって歩調を早めると、次第に夜の人通りのない通りを走りはじめていた。
後ろの人影も息を荒くしながら、私の後を追ってくるのを感じる。
はぁっ、はぁっ——
人気(ひとけ)のない住宅街を当てもなく走り続ける。
しかし、早く逃げなきゃ、そう焦る私の思いに反して、日頃運動不足な私の足はもつれ、ついにそのまま前につんのめり、アスファルトへと転んでしまう。
転ぶのと同時に、地面に投げ出されたバッグから中身が飛び散った。
その中に鯉登くんに以前もらった連絡先の紙を見つけた私は、縋るようにその紙を反射的に握りしめる。
あぁ、彼の言うとおり、私はもう少し誰かに頼るべきだったのかもしれない。
後悔してももう遅いけれど。
怯えながら背後を振り返ると、中年くらいの男性が私と同様に息を切らせながら私の方に真っすぐに向かってくるのが見えた。
やだ。怖い。逃げなきゃ。
頭ではそう思うのに、身体は恐怖で震えてしまい足は動かなくて、助けを求める声もうまく口から出てこない。
誰か、誰か助けて——!
私が心の中で強く強く願ったその刹那、
私と襲ってきた男性との間に、見覚えのあるスーツ姿の背中が突然飛び込んで来た。
そのスーツの男性の手には何か細い棒のようなものが握られていて、私がそのことに気づいたときには、既にその人は暴漢へ一撃食らわせていた。
予期しない打撃を食らった暴漢は、背中から固いアスファルトへと倒れ込む。
「いってぇ!」
「……これ以上痛い思いをしたくないのであれば早くここから立ち去れ。2度と彼女に手を出すな」
「なんなんだよ、お前は⁉」
「お前こそ、女性の後をこそこそと付きまとうなんて、いったいどこの外道だ」
聞き慣れたはずのその声は、低く怒気を孕んでいた。
相手に有無を言わせない強い口調で相手を圧倒し、襲ってきた男性は彼に恐怖を感じてはたから見てもがくがくと足が震えている。
「お、覚えとけよ!」
足を震わせながら暴漢はなんとかその場に立つと、どこかの子供向けのアニメに出てくる敵役が言うような捨て台詞を吐いて、あっけなくその場を去って行った。
「いったいなんだあの男は? これに懲りてくれれば良いが……」
消えゆく暴漢の背中をしばらく見つめたあと小さく呟いた彼に、少しばかり冷静に戻った私は話しかける。
「こ、鯉登くん…」
彼は私の方へ振り返ると、しかめっ面をしたまま私の方にずかずかと寄ってきた。
「お前もお前だ。だから、私や周りを頼れとあれほど言っただろう! この馬鹿すったれ!!」
馬鹿、す…? ん?
開口一番放たれた彼の言葉はうまく聞き取れなかったけれど、今はそんなことどうでもよかった。責めるような口調の彼の声と叱るような表情を見た瞬間、安心した私は思わず涙を流す。
「す、すまん。言い過ぎた! 泣かせたかったわけではないのだ……!」
涙が溢れて止まらない私の前で、先ほどの叱りつけるような態度はどこへやら、おろおろと狼狽える彼は、スーツの内ポケットからハンカチを取り出して「ほら」と私の方に差し出した。
ハンカチを受け取り、目に押し付ける。ハンカチにはいつも彼からほんのりと香るいい匂いがついていて、その香りで私は安堵し、ますます声をあげて泣いてしまう。
最後にこんなに泣いたのはいつだっただろうか———。
鯉登くんはしばらくそんな私を戸惑いながら見つめては、「怪我はないんだよな?」とか「身体は冷えていないか?」と、ぽつりぽつり申し訳程度に話しかけてくる。
——あぁ、そっか。
泣かなかったんじゃなくて泣けなかったんだ。
1人で泣いたって慰めてくれる人なんていない。わかっているからこそ、泣いても意味がないと無意識に感情にブレーキをかけていた。
でも今は違う。
目の前には、鯉登くんが、受け止めてくれる人がいる。
ようやく私の涙が落ち着いて、彼から投げかけられる質問にも答えられるようになってきた頃、彼は私の目の前にしゃがみ、様子を伺うような表情で顔を覗き込んで手を伸ばしてきた。
「…立てそうか?」
私はこくりと頷くと、差し出された彼の大きな手につかまりゆっくりと立ち上がる。
彼の足元には木刀が置かれていて、先ほど彼がその剣術で暴漢を退けてくれたのだと私はようやく理解した。
鯉登くんは私を立ち上がらせると同時に、転んだ拍子に私が落としたバッグを拾い上げて自分の肩へとかける。
立ち上がって、「ありがとう」と私が彼の手を解こうとしたとき、彼の手が離そうとする私の手をふわりと優しく掴んだ。
「ほら、帰るぞ」
優しい言葉と表情とは裏腹に、いっそう私の手を握る力は強まる。
彼の手のあたたかさが、恐怖で震えていた私の身体を少しずつあたためて、強張っていた身体をほぐしてくれる。
「うん……」
鯉登くんは力なく返事する私の方を気遣わしげに一瞥し、何か言おうとして言葉を飲み込むと、私の家の方角へと歩き出した。
私も無言のまま、子どものように彼に手を引かれながら家の方向へと進む。彼の連絡先が書かれた紙を、もう片方の手にずっと握ったまま。
静かな朧月夜を鯉登くんと2人で歩きながら、私は自分の中にあるけれど無いことにしたかった気持ちにようやく気づく。
今までの私は勝手に1人で意固地になってただけで、周りを見れば手を差し伸べてくれる人はいるのかもしれない。
友人も恋人も、働くうちに人のぬくもりなんて諦めていた私だけれど、どうにかこうにか上手くやれる未来もあるのかもしれない。
本当に、鯉登くんは不思議な人だ。彼の大きな背中を見つめながら、私はぼんやりと考えていた。
(つづく)
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